結婚観について

キリスト教と結婚の関係

男性が求める性の形

キリスト教における結婚観を考察して見えてくる女性という物をいかに軽視しているかがよく分かる。日本にもそんな時代があり、女性たちにとって屈辱とも、個人の意思といったものさえ剥奪された社会的地位に対して憤りを感じる人もいるだろう。こうした歴史的変遷については正直、否定してはいけないだろうと思う。もしもこうした変遷が現代ではない、もう少し早い段階から始まっていたら現在になった頃はまた違った価値観が登場していたとも考えられる。それが女性にとって憂慮するべき事態にならないとは言えない、それこそ個体として全存在を否定されかねないことが発生することもあるからだ。

古代の結婚観に関してはかなり特殊な部分があったことは認めよう、それらが社会という枠組みにおいて鮮烈されるくらい度外視できない歴史を秘めている。中でも注目したいのが、古代ローマにおいて『男性は内ではなく、外に性的快楽を求めるべきである』と言われていたことにも関係している。女性はただ子供を産んで繁殖行為に浸っていればいいとまで言われていた時代、男たちにとっての愛情を持つ対象として考えられていたのは、女性ではなく同じ男性の特に美少年とカテゴリーされる人々に向けられていた。

結婚しようそうしよう

キリスト教と同性愛

キリスト教において同性愛は認められていない、女性の姦通罪以上に排他しなければならない存在であり、忌むべき存在とも言われている。だからこそ世界的に同性愛者という存在を一時期は毛嫌いして、社会的に認められないとまで言われていた時代もあった。現在では地域によっては同性同士の婚姻が認められるようになっている。日本でも渋谷区で同性パートナーシップ証明書が現在全国的に話題となっているが、今でこそ同性愛に対して嫌悪感をむき出しにして毛嫌いしている人はいるだろう。しかしそれが古代ローマ、日本でも戦国時代などでは当然のように男性たちは営んでいた。

ただ相手に関しては女性のような少年たちとなっており、そこに見いだされるのは一つの愛情としての形があった、特にローマにおいては美少年とのロマンスは社会的なステータスにも繋がると言われていたくらい、かなり盛んだったようだ。強いて言うなら女性という存在は当時のローマ人男性にすればただの道具としてしか見ておらず、彼らが真に愛すべき存在として対象となったのは美しき少年たちだったというのは皮肉すぎる。

おそらくだが、こうした考えはキリスト本人にしても忌み嫌う対象だったのかもしれない。この際キリストという存在が本当に神の子なのかどうかという点は気にしないとしても、同性同士の恋愛などというものは神が望んだものではないとして普及していった。やがてローマでもこうしたキリスト教の考え方が広まっていき、同性愛をするものは不浄とまで言われるようになる。

式挙げる派ですか挙げない派ですか

男女という関係

同性愛というものは排除しなければならない、キリスト本人が望んだのか、それとも本当に神が願ったのかは分からないが、誰かしらの意思が絡んでいたのは間違いないだろう。根拠はない、ただキリストに説かれて全国にキリスト教を布教させた弟子たちの意思は強く、磔にされてしまった師の思いを人々のに届け無くてはならないという強い思いも絡んでいたといえる。

ただそもそもの根底として、どうして男女という生殖行為が行えるようになっているのかと考えると、それこそ世界を動かす原動力となっている創造論から離れてしまうと恐れていた。例えばもし、同性愛というものをキリスト教が容認したとしよう、そうなったら男性にしても、女性にしても男という縛りに捕らわれることなく、各々が自由な恋愛をする事になる。それが人という個体種を衰退させかねないという恐れは多少なりともあるが、必ずそうなるといった危険は無いと思うが、それは現代人だからこその考え方かもしれない。

今でこそそんな風に危機感0な発言ができるが、キリスト教の勢いが衰えることなく、広く同性愛を寛容に受け入れるといった動きになってしまったら、一体どうなっていただろうか。性という枠を超えたという意味では開放的だが、種族として見た場合には正直シャレにならない状況になっていたのかもしれない。同性愛を否定するといったことではないが、キリストが同性愛を罪とする考え方が生まれたのは正解だったといえる。

式場決めましたか?